J.S.FOUNDATION

活動報告

2014.02.20 UP

記録的な大雪が各地に甚大な被害をもたらしました。
みなさまにはお変わりございませんか?

雪が少ない東京に住む私には、文字通り「一夜明けたら銀世界」の風景が不思議で自然の凄さを感じました。
雪景色を美しいと見るか、厄介な物と思うか、住む場所や体験によって真反対になってしまいます。
でも、どんなに困難な環境にあっても、心温まる人と人の触れあいの物語があり、うれしく思えました。

J.S.Foundationは前回に続き、大学卒業目前の内藤風章くんにミャンマーでの初ボランティア体験のレポートをお願いいたしました。
こういう体験を経て、一人でも多くの若者を人道支援の現場に.....願っています。

「ジャパンハートの活動に同行して」

2013年12月24日から年末 年始を現地で過ごし、2週間の日程でミャンマー・ジャパンハートの活動に同行いたしました。
先日もご報告したように最初の3日間はヤンゴンにある「ドリームトレイン」でボランティアに参加させて頂き、引き続き父の撮影の助手として、吉岡秀人医師が活動されているワッチェ慈善病院と北部カチン州でのミッチーナ総合病院でのミッションに同行させて頂きました。

約10日間、昼夜を問わずの密着取材でしたが吉岡医師の活動を見て、「パワフルで行動力のある浪速のおっちゃんだなー」というのが第一印象でした。

はじめに驚いたのは、手術件数の多さです。
今回の撮影中、一日平均20件の連続で、一日の始まりは5時半に起床しラジオ体操から・・・
そして、掃除、朝食、ミーティングを終えて7時半からオペが始まる。
吉岡医師をはじめとする、日本から参加した研修医、ミャンマー人医師によってオペは着々と進んでいき、一日が終わるのは遅いときで午前0時を超えることも度々の毎日を過ごしました。

当地での手術は、月に約1週間に集中させて行い、つい最近までは期間も手術件数も今よりも多かったそうです。

現在はミャンマーだけでなく、カンボジアやラオスなどにも医療支援を広げられていて、様々なところでの手術、日本での講演会などの活動があり、常に行動されているご様子で、その体力にただただ驚かされました。

ワッチェ慈善病院で手術する吉岡医師

その原動力はどこからくるのか、なぜミャンマーで活動しようと思ったのか をお伺いしました。

そこで吉岡医師は、
「遺族会に頼まれ、慰霊に同行する形で初めてミャンマーに来ました。
太平洋戦争当時30万人中20万人の日本人がビルマ(ミャンマー)で戦死し、毎年のように遺族たちは慰霊を行っていました。
遺族たちからは、ミャンマーの医療がひどいからどうにかしてくれということを聞いていましたし、実際に見て、ミャンマーの医療の現状を知りました。
それと同時に、ビルマで戦死した日本人の想いみたいなものを感じとりました。
どんな想いで亡くなっていったのかと・・・いろんな想いがあるなか、なにかメッセージを抽出するとしたら、自分たちの死んだ後の日本のことをよろしく・・・だったのです。
このメッセージを受け取ったから、日本とのつながりを大切にしているし、このメッセージに応えることを使命だと感じている」
とおしゃっていました。

いろんな人の想いを背負って活動されているからこそ、それが大きな原動力となり、いろいろな困難や、協力してくれる人たちと出会いながら地道に活動して、今までに1万人以上の命を救ってこられたのだと感じました。

ミッチーナ総合病院で手術後、心配そうに我が子を抱き寄せる父親。
撮影 内藤風章

吉岡医師は、1995年にミャンマーを訪れ2年経った1997年に一時帰国し、2003年から再びミャンマーでの医療活動を再開しました。
最初は彼1人で活動していたため、医療活動に関わるすべてのこと、さらに政治や経済のこと、東南アジア全体のこと、日本のこと様々なことを考えていらしたようです。

「右の目で日本国内、左の目を海外に向けて」と言うのをお聞きした後に、吉岡医師の活動を見ていると、この言葉通りの事をされているなという印象を持ちました。

様々なことについて常に考え行動されているからこそ、見えてくるものがあるのだと思います。

ジャパンハートのスタッフや、日本から受け入れている長期研修生には、ミーティングや食事のときなど、吉岡医師の考えなどいろいろな事を聞く機会が多くあります。
ミッチーナでの訪問診療中の手術初日、機材の関係でなかなかオペがスムーズに運ばずフラストレーションが溜まっていられるご様子だった吉岡さんが夕食時に、「君たちはこの現場に初めてきただろうけれど機材のミスが多すぎる。初めてだからとか、経験させてもらっているという気持ちでいる事はよくない。いろんな隙が生まれるし、なかなか上手く行かない。僕は一人の戦力としてここに連れてきている。結果を出そうとしないとダメだ」とおっしゃっていました。

厳しい言葉ですが、こういった一つ一つの言葉の中に「すべては患者のために」という想いがつまっていることを強く感じました。


ジャパンハートの活動を同行させていただき、吉岡医師の想いや覚悟を肌で感じることができ、想いや、やりがいを感じて働いている人はこんなにも輝いているものなのだと思いました。
特に、オペ室に入る前の優しい感じが一歩中に入ると、ものすごい集中力と厳しい指示が飛び、空気が一変します。そういう空気を自ら作り出せるというのは、確かな経験と努力と自信が成せるのだなと驚きました。

一つ一つの命を見つめてきた結果、いままで1万人以上の命を吉岡医師は救ってきました。
地道な活動の積み重ねがこういう大きなものになっていくのです。
私は、このようなすばらしい方と出会うことができて、自分自身もっと努力していかないといけないな、とあらためて思いました。

自分の可能性や、希望を叶えるためのチャンスはどこに落ちているのか分かりません。
だからこそ、毎日を懸命に生きることでそのチャンスを掴みとるための経験と見る目を養いたいと本当に思いました。

今回父親の撮影で同行させて頂きました。
父は普段、浜田省吾さんやスピッツなどを撮影している音楽フォトグラファーです。
最近では、スーダンやカンボジアなど様々なNGOの活動も取材撮影しています。
各国の人道支援の現場では困難と対峙しながらも活躍している事実や、そこには同時に生命(いのち)の尊さや美しさがあります。
私は、昨秋カンボジアにも父親の撮影に同行しましたが、そこでも美しい風景や、人の営みなど様々なことを感じることができました。
今回海外での撮影同行は2回目でしたが少しずつ父がやりたいこと、伝えたいことが分かるようになってきました。

また、30年間父が撮影させていただいている浜田省吾さんの楽曲の中には、愛や生命(いのち)、社会的問題についての楽曲が多くあります。
そういった楽曲で歌われていることが、現実に起きているのを目の当たりにして、よりもっと現実的に考えられるようになりました。

私は、浜田さんの楽曲を聴いていると、夢や希望の中に「次の世代に」というメッセージがあるように感じます。
次の世代というのは私たちやまたその下の世代にあたると思います。
今回本当に貴重な経験 をさせていただきましたが、こういった経験をさらに積み重ねていきたいと思いますし、今まで皆さんが作り出してきたものを今度は私たちがそのバトンを受け取って自分も伝えていくことのできる存在になっていきたいと思います。


「灯りをともすこと・・・」そんな父親の想い、浜田さんの楽曲に込められている想いを今回、同行させて頂いて少し分かった気がします。

大学4年時に大きな経験をしました、そして私はこの春に社会に出ます。
この経験を活かせるように精一杯の努力を重ねていきたいと思います。

今回このような機会を頂いたJ.S.Foundationやジャパンハートの皆さんその他ご協力していただいた皆様に感謝いたします。

ありがとうございました。

大学生 内藤風章(22)

写真 内藤順司


2014年1月1日元旦の朝。

ミッチーナ総合病院の中庭で手術の待つ母と子。

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